白岡町の被差別部落のすぐ近くに2ヘクタールほどの森があります。40年ほど前まで森は村と生活を通して繋がっていました。落ち葉を堆肥として利用し、木々は薪となり、そして春にはワラビやゼンマイ、秋には栗やきのこを恵んでくれました。森のはずれまで見通しがきき、地面には苔がはえて、とてもきれいな森でしたが、むらの人たちが持っているのはほんの一部で大部分はよその人たちの持ち物でした。
石油コンロと化学肥料の登場はそんな森の姿を一変させました。手入れをされなくなった森は下草が茂り、篠竹がはえ落葉樹に代わって樫などの常緑樹が増え、村の人の竹藪の竹も森に進出しました。森には農業用ビニールハウスの役目をおえたものや、家庭から出た空き瓶や生ごみ、古タイヤなどが捨てられ、足を踏み入れることさえ困難な状況になってしまいました。
こんな森ではいけないと部落の人たちは立ち上がり、森の清掃を始めます。町にも協力を要請し、トラックで何台分ものゴミを運んでもらいましたが、清掃とゴミ捨てはいたちごっこを繰り返し、状況はなかなか改善されませんでした。
そんなとき、森に買い手がつきました。岩槻市(現さいたま市)の寺と農協の葬祭部門がここを墓地として開発しようとしたのです。彼らは町の議員を抱き込み、議員が周辺地権者(予定地の敷地の端から100m以内の地権者の同意が必要)の同意書を集めて歩きました。村の中からも「墓地ができたらうちの田んぼは埋めて駐車場にしたい」「墓地ができたらうちも買いたい」などと同意書にハンコを押す家もありました。「開発利益」をねらった墓地問題は村の中を引き裂きましたが、何とか阻止することができました。
墓地騒動が落着したのも束の間、森の半分が植木屋さんのものになってしまいました。一番大きな面積を持つ地権者に相続が発生し、浦和に建設されるサッカー場に土地を提供したため代替地を求めていた植木屋さんとの間で話がまとまったためでした。
こうした事態に危機感をもった私たちは「森の保全」をもとめて役所と交渉をもちました。白岡町でも緑地がどんどん少なくなり、いまや1ヘクタールを超える森はここだけになってしまっています。交渉のなかで町は「県の『ふるさとの森』の指定を受けられるよう努力する」と約束し、4、5軒の地権者(このとき村には一軒の地権者もいなくなっていました)を役場の職員が説得してまわり、こうして「ふるさとの森」が誕生しました。
ふるさとの森は誕生したものの整備が必要でした。町の有志がボランティアで森の整備に参加してくれることになり、活動がはじまりました。下草刈り、倒木の片づけ、森に入り込んだ竹の伐採、秋から冬にかけ月に2回ほどの取り組みが進められました。チッパーという機械を持ち込み、倒木や竹を粉砕し、一部は近くのたんぼに引出し大たき火をしました。残った灰の中ではおいしい焼き芋がまっています。
ふるさとの森はこうして次第に昔の姿をとりもどしてきました。春にはスミレや春蘭が咲き、エゴノキは白い花を一面につけ、ミズキが実をつける夏にはムクドリの大群が樹上で大賑わいをし、初夏にはフクロウがやってきて夜の森で歌います、田んぼのかえるがバックコーラスを担当します。また森のすぐ脇の田には稲刈りの後レンゲが蒔かれ、春には一面の花にミツバチがたくさんやってきて、重そうに花粉団子をもってゆきます。夏、下草が伸びる時期は道路に面した部分の草刈りをしています。手入れをされた森、最近はゴミを捨てるひとが本当に少なくなりました。
この森で数年前から4月の末に「パンフルートコンサート」を開催しています。森で収穫された筍でご飯を炊き、よもぎの草団子、せりやよもぎ、のびる筍の天ぷらなどが用意されます。午前中の自然観察で森を案内し、お弁当を食べながら午後はコンサートです。パンフルートの奏者は江藤善章さん、ギター奏者の方も一緒です。そこにむらの三味線奏者も加わり、木漏れ日の下でコンサートは続きます。昨年からはウッドクライムの指導者にも参加していただき、子どもたちの人気を集めています。子どもたちだけでなく大人も木登りに挑戦し、メタボ予備軍の体が数多く空中に浮かびます。
今年6回目を迎えたコンサートは口コミで広がり、80名ほどの参加者がありました。行政区の区長さんや町会議員、県会議員や国会議員が顔を出すこともあります。お弁当作りや天ぷら揚げの準備などむらの人たちは前日から大わらわです。当日にはホームヘルパーのボランティア(虹の会)の人たち10名ほどに参加していただき、草団子やお弁当作り、天ぷら揚げや集会所からの運搬、お弁当配布などの運営に参加していただいています。
町の広報で紹介したら、と言われたこともありますが、これ以上参加者が増えるとパンクするので、手作りイベントの規模としてはこの程度がちょうどよいのかなと思います。
ゴミ捨て場と化していた「ふるさとの森」はこうして蘇りつつあります。今後も地権者の協力をいただきながら、少なくなった貴重な緑の空間をなんとか残してゆきたいと願っています。
(『明日を拓く』84号、「会員・読者のページ」から転載)