「面掛行列」を考える/久保田 宏(神奈川部落史研究会)
[ 2010-11-01 ]
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神奈川では、二〇〇七年の『神川の部落史』の刊行の後、それを出発点としながら新たな研究の発展をめざし、二〇〇九年二月に神奈川部落史研究会を設立し、活動を続けている。現在の会員は六十六名で、講演会、公開講座、研究会、フィールドワーク、通信の発行、そして専門部会などの活動を行っている。
この活動の一環として、九月十八日、東京人権啓発企業連絡会第六グループと合同で事前学習会を実施し、鎌倉坂ノ下の「面掛行列」のフィールドワークを行った。
「面掛行列jは、坂ノ下の氏神御霊神社例祭に湯立神楽などの神事の後に行なわれる神輿渡御に随伴するいわゆる風流(ふりゅう)であり、今ではこの神輿渡御の行列を代表するかのように人気を集めている。「面掛行列」は神奈川県無形文化財にも指定されているが、その起源は必ずしも定かではない。『神奈川の部落史』にもあるように、一七〇九(宝永六)年、鎌倉を訪れた江戸の材木商紀伊国屋文左衛門一行が鶴岡八幡宮の放生会を見物しており、その紀行文『鎌倉三五記』に放生会の神幸行列の様子が記されている。先頭に杖突きと鉄棒引き、その後に長刀、槍、獅子頭、白旗、弓、矢と続き、さらに「面懸十人」とある。『鎌倉三五記』には書かれていないが、先頭の道浄めの鉄棒引きは極楽寺村の長吏がつとめていた。そして現在の鶴岡八幡宮例大祭の神幸行列にこの「面懸」はなく、坂ノ下の御霊神社に残されているのだが、その経緯はあまり明らかにされていない。
「面掛行列」には他にも未決の問題が残されているが、ここではふたつだけあげてみる。
鶴岡八幡宮の放生会の「面懸」を担っていたのが坂ノ下村の人たちだったということは永田衡吉氏の『神奈川県民俗芸能誌』(増補改訂版)などで明らかにされているが、では何故坂ノ下村だったのかという疑問が残る。これがひとつである。これについては、鶴岡八幡宮と御霊神社の関係の深さが鍵となるかもしれない。『吾妻鑑』文治元(一一八五)年十二月二八日条には、北条政子に仕える下野の局の夢に御霊神社の祭神鎌倉権五郎景正が現れ、讃岐院(崇徳上皇)の崇りを自分のカでは制止できないので、若宮(鶴岡八幡宮)の別当に伝えてくれと託宣したと記されている。つまり、自分の力が足りないので、より強い神八幡神に頼みたいと言っているのである。これは八幡神と御霊神との関係を示唆するものではないだろうか。多くの八幡神社に御霊神である若宮が祀られているように、八幡信仰はもともと御霊信仰と縁が深く、坂ノ下の御霊神社がその祭神を源氏の武士鎌倉権五郎とすることにより、この関係がさらに深まり、一体となって全国に広まったとも言われている。このことが坂ノ下村による「面懸」に影響しているのかもしれない。
もうひとつは、「面掛行列」のなかの「おかめ」である。永田氏は、「むかし頼朝が甘縄の非人の娘を懐胎させた。それ故、年一回、鎌倉の中の非人たちに無礼講を許した。その時、妊娠した娘の姿に仮装して村中を歩いたのが始まり」という伝承を紹介しており(『神奈川県民俗芸能誌』)、こうした伝承と結びついたことがかつてこの行列が「非人面行列」と呼ばれたことの理由となったと思われる。しかし、頼朝が非人の娘に懐胎させたということは、あくまで伝承であり、史実ではないと考えられる。また、「面掛行列」には「おかめ」のほかに「火吹男(ひょっとこ)」もおり、 「おかめ」と「ひょっとこ」は、稲作の予祝行事である田遊びに登場し、性的な動作をしながら農耕の豊穣を祈願するという役割をもっている。だとすると「おかめ」は決して「面掛行列」に特有のものではないといえる。そこから考えれば、むしろこの頼朝の伝承が、いつ頃、どのようにして行列に結び付いたのかを考えることがより必要なことではないかと思われる。
「面掛行列」の人気は高く、今年も多くの見物客が集まったが、課題もまた多く残されていると改めて考えさせられたフィールドワークであった。
(『明日を拓く』85号、「会員・読者のページ」から転載)