鉦打・時宗研究会 最近の活動報告
[ 2010-11-16 ]
カテゴリ:報告情報
二〇〇八年一月以来研究会を重ねてきたが、本年は六月に相川之英氏の研究報告(第五回)、九月には菅根幸裕氏の研究報告(第六回)を実施することができた。
相川氏(群馬県伊勢崎市・相川考古館)の報告では、小規模ながら城下町であった伊勢崎町の一隅に江戸時代初期から鉦打郭が形成され、近代に至るまで維持されたことが明らかにされた。また、戸数の変遷はあるものの、鉦打身分の人々がこの鉦打郭に集住し続けた事も明らかにされた。これらの点を、氏は豊富な絵図・検地帳・宗門人別帳などを用いて説明された。その中で、相川考古館が所蔵する原本や原図が多く披露され、参加者を喜ばせた。また、プロジェクターを駆使しての説明には、得手不得手を越えて古文書学習に親しむ場を形成し、予定時間の四時間がたちまち過ぎてしまった。最後に、伊勢崎における鉦打の生活実態・宗教活動の実態が不明確であることが指摘され、この側面については他地域の資料に期待していくことが確認された。
菅根氏(千葉経済大学)の報告は『近世社会における鉢叩(空也聖)・鉦打〜「三昧聖」・「キヨメ」をモチーフに〜』と題したもので、長年にわたる俗聖の研究を特に京都極楽院空也堂と本末関係を結んだ三昧聖・鉢叩・茶筅の変遷と実態を解明したものであった。
その全体像を紹介する余裕はないので、印象的であった点のみ述べれば、一つは、同じく鉢叩・茶筅と呼ばれながらも、丹後半島方面のそれは葬送に関わってはいなかったように見られるのに対し、中国方面では三昧聖としての在り方が主流であったと見られるという点である。二つには、東日本の鉦打は葬送には関わっていなかったと見られるところから、鉦打を三昧聖の一部に分類した上別府茂氏の論に批判を加えた点である。この見解は従来の私達の認識と合致するものであるが、菅根氏が鉦打の「キヨメ」の機能を説かれた点に今後の研究課題が示されたと感じられる(大熊哲雄)。